どちらの、ものか。問い続け、見出す新たなカタチ。
名古屋市緑区鳴海町。この街で絞り染めの技術が栄えたのは、今から400年近く前のことだ。
独特な縛り方で布を括り、染料につける。水で洗って陽に透かせば、たちまち美しい色合いの反物に変わる。
職人が手掛けるそれは、二つとして同じものはない。
名古屋の「絞り」といえば有松の地名を想起する人も多いのではないだろうか。
有松絞り。鳴海絞り。声に出して口腔内で音を弄んでみても、耳馴染みがするのは前者のような気がする。
有松と鳴海。同じ緑区内に存在するこの二か所で、どのように絞り文化が広まっていったのか。有松との関係性、そして今、鳴海が抱える問題とは。
鳴海の地で「鳴海絞り」を作り続ける「有限会社こんせい」の近藤さんに、その歴史を聞く。
「我々は、それぞれ『有松絞り』『鳴海絞り』と分けて呼んでいることが多いですね。けれど公の場で発信するときは『有松・鳴海絞』という言い方をします」
「有松鳴海絞」。伝統工芸としての呼び名は国でそう定められているそうだ。有松、鳴海それぞれに組合があり、その両者の中立的な立場として「愛知県絞工業組合」が存在しているという。両者の絞り技術の発展と繁栄を目指した組織だ。
「有松も鳴海も共通して言えるのは、江戸幕府が始まったころが染めの起源のようです。名古屋城を築城するときにこちらへ来ていた別府(大分県)の人の着物に、絞りの技術が使われていたらしくて。その技術をここでも始めたのが発祥といわれています。鳴海は藍染川と扇川とが流れていて、染め物に欠かせない水は豊富にありました。さらに川上のほうにある相原郷という場所では原材料となる藍がとれ、三河や知多では木綿づくりが盛ん。染め物の街として栄えるには充分な条件がそろっていたのです」
かつては女性の手仕事だった染め物。鳴海には「鳴海宿」があったこともあり、東海道を行き交う旅人たちには人気だったという。次第にそれを生業とする者が現れ、多くの職人が腕を競うように染め物を作り続けた。
そんな鳴海宿の隣にあったのが「有松宿」。東海道五十三次の池鯉鮒宿(現在の愛知県知立市)と鳴海宿の間にあった、間の宿(あいのじゅく)だ。
ここでもなにか名産物を、と幕府は考えたが、当時の有松地区は土地の質が悪く、農作物を育てようにも開墾にはてんで不向き。そこで鳴海から技術を習い、有松でも染め物を作ろうということに。こうして、しばらくは2地点で栄えた絞りの技術だったが、江戸時代末期には「同じ名産品は2ヶ所で要らない。どちらかのものとする」というお触れが出たのだそうだ。
鳴海には職人が多く、有松には販売する店が多かった。
職人が多いのなら、他の名産品を作るという選択肢もあるのではないだろうか?
有松は土地こそ乏しいが宿場町としては十分に人の往来がある。
そんな協議が成された結果。
絞りは、鳴海にではなく、有松のものに。
それが幕府の決定事項だった。
鳴海でも絞りは作り続けた。鳴海独特の進化をせずに、同じ技法で。 現に江戸時代の浮世絵には、鳴海の地として絞りの風景が描かれているし、この辺りに住む古い住人は今でも「鳴海絞り」と呼ぶ。
有松絞りか鳴海絞りかは、販売する絞り屋がどこになるかで決まっているだけの、実にあいまいなものだったのだ。
ところがだ。
「ここ数年で、絞り染めがブームになってきて、街でも絞りの浴衣や小物を普段から使われている方をよく見かけます。嬉しいのですが、『絞りは有松』とひとくくりになっていたら少し悲しいかなという思いはありますね。有松と鳴海、どちらの地域も誇りを持って伝統を受け継いでいます」
2019年には、有松の町並みが名古屋初の日本遺産にもなっている。
その構成要素のひとつとして、「有松絞りの技術、および有松絞りの技術を使った製品があること」が盛り込まれたが、少々引っかかるところを感じた近藤さんは、関係者に問い合わせたという。
すると返ってきたのは「有松の町並みで売られているものが有松絞り」として定義されているという回答。
絞りの技術も製品も、共に作り上げてきた。同じものは、鳴海にも存在するはずだ。近藤さんは喉元に思いをひっこめた。
しかし近藤さんはこう続ける。
「でも正直、僕らは、どっちの絞りだ、どっちが発祥だ、なんていうことではなくて。有松と鳴海、どちらもが協力して発展していけたらと思っているんです」
そのためにはまず鳴海絞りの技術を継続していかなくては、と深刻な面持ちで近藤さんは付け加えた。
職人もどんどん高齢化し、技術伝承者の減少が著しいのだそうだ。有松にも鳴海にも、若い「絞り作家」は増えているが、「絞り職人」は減っているという。いろいろと挑戦はしたい気持ちはあるが、鳴海絞りを存続させるだけで今は精一杯だと、近藤さんは困ったように笑う。
絞り染めは元来、布にデザインを施す職人、布を縛っていく職人、染める職人、糸を抜き仕立てる職人、販売する人、と行程ごとにそれぞれ分かれている。
布の括り方は70種類以上にもなるといわれており、一人ひとりがその技法を受け継いでいる。生涯、一つの括り方しかしなかったのだ。
そして括ったあとは染める。染め職人も、同じ染め方しかしなかった。仕立て師も同様だ。磨き上げるごとに細くなり、精度を高めていくニードルのように、段階を追うごとに「その人にしかできないもの」が洗練されていく。
とどのつまり、それができる人が「職人」。作りたいものを作って自分で売る人は「作家」と呼ぶのかもしれない。
作りたい人は増えているのに、作らなければいけない人は減っている。職人には工賃を支払わなければ存続は立ち行かない。
なんと皮肉なことなのだろうか。
そんなジレンマを抱える鳴海絞りの、最近の取り組みとは。
「最近ではもっぱら、モノ(商品)に加えてコト(体験)を売ることが増えました。地元の学生や、外国人観光客に向けてが多いですね。作る体験を通して、地域の活性化につながればと思っています。有松絞りの方とも協力して、第三者も交えてワークショップやイベントなども積極的にやっていきたいですね」
手づくりや職人芸にプレミアム感を見出している昨今だからこそかなう、モノ商品からコト商品へのシフトチェンジ。それももちろんなのだが、やはりモノが売れていけば、職人へ支払う工賃の問題解決も吝かではない。
また、職人とまではいかずとも主婦の副業として内職を頼んだり、障がいのある方にお願いしたりと、関心や興味がある作り手を増やしていくことにも注力しているという。結果的に、作り手が増えればモノが増える。モノが増えれば流通が動く。
「試行錯誤していますけどね」と近藤さんは笑うが、有松でも鳴海でも、絞りを栄えさせ続け、またその技術を守り受け継いでいこうとする思いは同じなのだ。
「僕たちは、美術品や芸術品としての『絞り』を作りたいわけじゃないんです。作りたいのは、生活に根ざしたもの。ふとしたときに触りたくなる、着たくなるような製品です。こうした、地道な活動がいつか実を結ぶと信じて、今は存続のために頑張っていきます」
鳴海の地にいまだ灯る煢然な炎は、鮮やかな色を放っていた。400年前から絶やさなかったこのともしびを、風前のものにしてはいけない。さまざまな問題点に揺らされながらも、私たちが「知る」ことで手をかざし、この小さな炎を守っていく必要があるだろう。
Text:光田さやか
Photo:荻野哲生
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