育てて、売って、買って、食べる、命。
ここは岩手県にある中央家畜市場。仕事のご縁がきっかけで、我々は子牛の競り場を見学する機会をいただいた。
「通常は、業者しか入れないんだけど。僕たちがどんな思いで子牛を仕入れているのか、見ておいてほしいなと思って」。先方のその一言に、我々の中のジャーナリズムがうずいて、一も二もなく引き受けた。
暦の上ではすでに夏なのだが、東北はそれでもやはり涼しかった。花巻空港に降り立つと、名古屋とは違ってカラリとした風を身に感じた。
競り場へ向かう道中、「服の着替えは持ってきた?」と尋ねられる。「はい、一泊なのでその分になりますが、あるにはあります」と答えると「それじゃあ、足りないかもな」と笑いながらの一言。
「においとかね。付くから。だって牛400頭いるんだよ。もちろん糞尿の中を歩いてもらうし。自分じゃ気づかないんだけどね。周りが気づくだろうね」
服だけでなく髪や肌にも付くという。牛のにおいも糞尿も、我々は全く気にしないし、実際気にならなかったのだが、牛400頭とそれを“品定め”する業者の皆さんを目の前にした我々は、それすらも忘れてしまうほど、現場の独特の雰囲気にのまれてしまった。
あちこちから轟く牛の鳴き声。一頭ずつ天井のレールと鎖でつながれ、身を捩るたびにガチャガチャと音がしている。自由に動けるスペースなどない。朝日に照らされた牛の毛並みが妙につややかで、その筋肉質な体躯をより際立たせていた。
業者の手には、この日出品された400頭分の牛のリスト。体高、体重の他、どの系統から生まれた牛で、親とその親の情報までが事細かに記されている。見せていただいたが、素人には全く何のことかわからず、ただその文字の羅列を目で追うのに必死だった。
我々をここに連れてきていただいたのは、三重県松阪市で畜産業を営む磯田さんと、彼の育てた牛を精肉・販売する「力八精肉店」の方々。磯田さんは何かを確かめながら、リストに印をつけていく。
目利きのポイントを聞いてみた。
「僕が狙っているのは、まず小柄な牛かな。ずらっと全体を見渡して、コンパクトな、というか、小柄なのにだけ目を付ける。それから、背筋がまっすぐか、上から見たときに背中が広いか。あとは毛の細かさ。今日だけで10頭落とせたら、上出来と言う感じ。1周目は30分くらいで見て、2周目で気になったのだけじっくりね」
子牛の個性を見ながら時間をかけて成牛にしていくのが、磯田さんの飼育方法。大きな牛を買って人間の都合で早く大きく育てるのではなく、あくまでも牛が主体の、ゆったりとした育て方をしているのだ。
通常、松阪牛といえば月齢24か月程度か、長いものでも27か月。しかし磯田さんのところで育った牛たちは平均すると56か月程にもなるという。そのぶん脂をしっとりとまとった、くどくなく、上質な赤身になるのだそうだ。
三重県松阪市大石町にある彼の牛舎ですくすくと育った牛は「往にし方の大石牛」という名前で、「力八精肉店」でのみ販売されている。
同じように、ここにいるどの業者も、それぞれの求める牛がいて、どんな牛に育てていこうか、どんな商品にしようかを考えながら見ているのだという。
子牛を育てた岩手の農家の方に、今日をどんな思いで迎えたのか聞いた。
生後1年にも満たない“我が子”を、今日、売りに出すのだ。きっとその心中は計り知れない、と思った。しかし聞こえたのは意外な言葉。
「そんなもん!すっこしでも高く買ってくれねと困る。エサ代だってどんだけすっと思っとる。1000円でも高く。ちょっとでもカネになってくんねえとな」
自分たちが育てた子牛を、少しでも美しく、いい状態で並べておくように、彼らは最後の最後まで子牛の身繕いを欠かさない。全ては、“いい値段”で買ってもらうためだ。
出産に立ち会い、ミルクをあげ、病気になれば看病をして。
愛情を持って育てた。だからこその思いだ。
私は、どんな言葉を期待していたのだろう。
午前10時。競りが始まる。半円状の席に業者が集う。JAのアナウンスが入り、一頭ずつ子牛が中央に立たされていく。
電光掲示板には子牛の情報とともに、どんどん釣り上がっていく金額が表示されていた。業者はそれを細かくリストに記入する。
お目当ての牛が出てきたら、手元のボタンを長押し。押している間は値段が上がっていくという仕組みだ。
1頭あたりの競りの時間は、平均して1分にも満たない。値段が付いたら、鎖を引っ張られて退場。すぐさま次の牛が出る。牛たちがどれだけ嘶いても、首を上下に振って暴れても、ほんの数十秒で値段がついて、競りが終わる。
命のやりとりか。
お金のやりとりか。
この場に持ち込んでいい感情が、私にはわからなかった。
値段のついた子牛たちは、それぞれの業者のもとへ振り分けられ、そこで年月を過ごす。
屠殺のそのときまで、命を全うするのだ。
成牛まで愛情を持って育てた業者にもまた、別れはやってくる。
我々が密着している磯田さんは、牛を成牛に育てたあと、屠殺場へは牛を置いて足早に去るのだという。鳴き声を聞くとつらいからだ。
そして、牛たちを弔うための塚に、数珠を供えて手を合わせてくる。
「何度経験しても、あの瞬間は慣れへんね。牛たちと3年近く一緒にいるやろ。僕は特に、牛の個性を見て育てているから。『ああ、こいつはよう食べるな』とか『こいつは臆病やからあとでゆっくり給餌せんとな』とか。やっぱり、かわいいから。だから冗談抜きで、一日でも早く、畜産業から足を洗いたいと思てるよ」
目深にかぶった帽子の下の目は、悲し気に笑っていた。
赤ちゃんから子牛へ。
子牛から成牛へ。
育てる人の思いがのしかかる。
しかしだ。
命を育て、捌き、売り買いすることは牛たちにとってかわいそうなことなのだろうか?
それとも、畜産業における経済の始点だと捉えてむしろ歓迎すべきことなのだろうか?
今日競られた子牛が精肉になるまで1年かかるとしても、現に、スーパーの精肉売り場には毎日欠くことなく肉が並び続けているではないか。
毎日どこかで、命が生まれ、絶たれてゆく。
それをかわいそうだと思っても、私たちは肉を食べるのをやめないし、精肉にしたりその牛を育てたりすることで世の中の経済が成り立つのは、不変の事実なのだ。
この如何とも形容しがたい感情と、経済が交錯する空間は、実に独特だった。
右脳で愛情をかけて育てながら、左脳でそろばんをはじいているであろう彼らの複雑すぎる心中を私が推し量ろうというのが、そもそもおこがましいような気がしてならなかった。
牛たちの命の息吹は、さまざまなところで感じることができる。
贈答用の高級肉として。
精肉の際の切れ端は加工品として。
骨やスジは濃厚な出汁として。
今まさに食べようとするその一口に、彼らの現実を思い、私たちは感謝することしかできないのであろう。
後日、岩手で買った子牛たちの様子を見に、三重県松阪市にある磯田さんの牛舎を訪ねた。
岩から染み出た自然の水をくみ上げたっぷり飲ませ、飼料はこだわりの配合で牛たちの様子を見てその日ごとに変えているという。穏やかに、ストレスなく育っていることがすぐにわかった。
磯田さんの声がすると、耳をピクリと動かし、そわそわと顔を向ける牛たち。何かを訴えるように体を磯田さんにこすりつけたり、服を食んだりと、とにかく愛らしいのだ。
「よしよし、どうした。たくさん食べたか?」「お前はな、ちょっと内気やからな。あとでゆっくり食べ」。さながら大家族の家長のように声をかけて回る。
なんとほほえましく、優しい時間なのだろうと思った。
命か?お金か?
愛情か?経済か?
考えても栓のないことではないだろうか。
磯田さんの瞳がそう言っているような気がしてならなかった。
命は終わっても、命の役目は終わらない。
命はその形を変えて、めぐっていくのだから。
Text:光田さやか
Photo:荻野哲生
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