好日写聞録

漂泊の詩人、松尾芭蕉。“人生を旅する”醍醐味

1644(寛永21)年、伊賀国に生まれた俳人・松尾芭蕉。伊賀から江戸に出立し、名古屋や伊勢、信州、大垣など日本各地へ赴き、大阪の地で病に斃れるまで、およそ1000もの句を世に残した“漂泊の詩人”だ。

彼の生まれ故郷を、彼の遺した俳諧とともに紐解く。

芭蕉生誕の地を歩き、名残に思いを寄せる

 伊賀上野城の城下町として栄えた本町通りや二之町通り、それらを南北に貫通する銀座通り、中之立町通りをそぞろ歩く。履物屋や茶屋、伊賀上野城の武家御用達だったという薬屋など、何百年と続く老舗が軒を連ねていた。伊賀市に生まれた芭蕉は29歳で江戸に出るまで京都の詩人・北村季吟(きぎん)に俳諧を習ったとされている。

「このあたりは芭蕉やその弟子たちもよく行き来していたそうです。伊勢や大垣など、芭蕉が旅した地は数多くありますが、暮らしの名残や生活感を感じられるのは、生まれ故郷である伊賀だけかもしれないですね」と話すのは、『芭蕉翁記念館』の学芸員・髙井悠子さん。芭蕉といえば、『笈の小文』や『奥の細道』などの俳諧紀行に代表されるように、各地へ旅をしながら俳句を読んだことで有名。しかしその間も、仲間たちとの句会や墓参りのために、伊賀へたびたび戻ってきていたそうだ。

 旅に魅せられ、旅を住処とした漂泊の詩人。俗世からかけ離れた生活をしながらも、心のどこかでは故郷を拠り所にしていたのかもしれない。

上/かつての城下町、中之立町通り。数々の老舗が立ち並ぶなか、市井の人々が暮らしを営んでいる。下/芭蕉29歳、菅原道真公770年忌を期して初の自撰句集『貝おほひ』を納めた上野天神社。この奉納ののち、江戸へ出立する。

芭蕉の俳句から見る日常

 芭蕉の句と聞いて、代表的なものをいくつかそらんじることができる人も多いだろう。『古池や 蛙飛びこむ 水の音』『閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲』『夏草や 兵どもが 夢の跡』など、枚挙にいとまがない。どれも情緒に溢れ、その場の音や匂い、肌触りが手に取るように感じられるから不思議だ。

 旅の俳人というイメージもあってか、このように芭蕉の名句や傑作といえば各地の風景や名勝地などを詠んだものを想起することと思うが、髙木さんは、芭蕉の意外な一面を感じられるエピソードを教えてくれた。

「芭蕉は若くして父親を亡くし、その後は諸説ありますが伊賀上野の武士に仕え、料理人を務めていた時期もあったと言われています。料理の腕には自信があったようで、1694(元禄7)年8月、芭蕉が帰郷した際には門人たちが新たに庵を建立したのですが、そのお礼にと芭蕉が開いた『月見の会』では、芭蕉自らが献立を考案し、門人たちをもてなしたとも言われています。

 他にも、『影待や 菊の香のする 豆腐串』という句は、庭に咲いている菊の花の香と豆腐田楽を詠んだもの。また『奥の細道』の旅を大垣で終え、帰郷した際に友人たちとキノコ狩りをした時の『茸狩や あぶなきことに ゆふしぐれ』という句もあります。
 当時、和歌の世界では、食に関わることは卑俗なものとして扱われ、『古今和歌集』以来詠まれることがありませんでしたが、芭蕉らが追求した俳諧は日常の何気ない一コマを詠んで楽しむもの。食べ物に関わる句には、日々の暮らしを垣間見ることができますね」

 暮らしの中のちょっとした面白みや、友人との雑談から感じたこと。そういった庶民的な部分に目を向け、五感を豊かに際立たせ、そこを深掘りしていくことで生まれる情緒的な味わいにこそ、芭蕉の句の魅力がある気がする。それらはおそらく、現代の私たちが慌ただしい日常のなかで忘れていたこと。手を、足を止め、耳を澄ませる。普段の料理をじっくり味わう。感じ方を楽しむ。その余裕を持つ大切さを、芭蕉が教えてくれている気がしてならない。

上/「茸狩り」の一句。茸狩りに夢中になっていたら、夕方に雨が降り始め、あやうく濡れてしまうところだった、という意。当時は男女こぞって茸狩りを楽しみ、焼いたり塩漬けにしたりして食したという。字の部分は芭蕉が、松茸の絵は門人の許六(きょりく)が記す。

生粋の“慕われ人”、芭蕉に学ぶ処世術

 江戸へ出てからも自分の腕に傲ることなく俳句を磨き続けた芭蕉。やさしく素朴で、ときにユーモアに溢れた句の数々からは想像もできないが、髙木さんいわく、芭蕉は実にストイックだったという。「これで完成!とはならず、常によりよいものを求める性格であったことがわかっています。例えば五七五を一人が詠んで残りの七七を別の人が読む『連句』では、最初の一句目だけ同じものを使い、メンバーを変えて後を続けたこともあったそうです。自分の俳諧はどこまでいっても完成しない。そんな泥臭い詩人だったんです」。

 その性格は彼の暮らしぶりにも現れている。1677(延宝5)年、俳諧師として独り立ちして以降も、華美な暮らしとは縁遠く、むしろ多くの弟子たちを抱えて教鞭をとったり、名声に満ちた競い合いの中に身を置いたりすることを避けるように、厭世的に方々へ旅をした。

その中でも彼が忘れなかったこと。
それは、故郷と、人を思うことだ。

 故郷への追懐が、旅の意欲を掻き立てる。自分の俳句に常に未完を覚えていた芭蕉は、人生そのものを旅に投影していたのかもしれない。もっと遠くへ、もっと高みを目指して。心の中に安息の地を思えば、どこまでだって行ける気がしていたのだろう。現に芭蕉は、死の4日前に病床で生前最後の句を残している。まだ旅をしたかった、とも、早くまた旅にでたい、とも取れるとして、いまだに解釈が分かれている。その一句が、こちらだ。

『旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる』。

上/芭蕉の墓碑「故郷塚」。芭蕉の危篤の報せを受けて大阪に急いだが間に合わず、葬儀の行われた滋賀の義仲寺から遺髪を持ち帰り、松尾家の菩提寺である愛染院に埋めた。塚の横には、芭蕉が愛用していたという手水(ちょうず)が供えられている。

 また、芭蕉は行く先々で人を大切にしていた。旅先での雑事を記したものや、伊賀の門人たちを気遣う内容、ありありとした景色の描写……。友人や門人たちに、まめに書簡を出していたことが明らかにされている。そんな芭蕉を慕って、故郷に帰れば大勢の仲間が出迎えた。尊敬して庵を建て、茶席を設けた。芭蕉の死を聞けば、その人柄を偲んで多くの俳人が句を遺した。

 芭蕉の周りに人が絶えなかったのは、彼が優れた俳人であったからだけではない。驕らず昂らず一途で熱心で、どこまでも質素で、それでいて人たらし。そんな人格であったから、周囲が放っておかなかったのだ。

「そうでなければ、芭蕉が送った手紙があちこちから出てきたりしませんよね。芭蕉さんにもらった手紙だから大切にとっておこう、そんなふうに思う人がたくさんいたということです」

  人との関係性が希薄になっている混沌とした現代。行きたいところへ行けず、伝えたいことを伝えられず、閉塞感を感じている人は少なくない。そんな時代だからこそ、謙虚な心を大切にし、何気ない日常のありがたみや故郷、周りの人を思う心の豊かさを養いたい。

芭蕉のように、人生を旅するという醍醐味を、感じられるはずだ。

芭蕉翁記念館
三重県伊賀市上野丸之内117-13(上野公園内)
0595-21-2219
8:30〜17:00
不定休

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