生粋人

<第1回>“長く強くたくましく”。期待と希望の麺。水鳥製麺所・水鳥一

空が白み始める朝5時半。「水鳥製麺所」の機械は稼働する。

まずはうどんの生地の仕込み。銀の大きなボウルに粉と水を入れて練り合わせる「水まわし」からすべてが始まる。混ぜたものを伸し機にかけて生地をまとめたら、グルテン形成のため、3時間ほどベンチタイム。その間に蕎麦や中華麺、餃子の皮の製作に取り掛かる。使う粉の種類や分量、裁断の厚さや太さを細かく変えながら、取引先の求める商品を何種類もつくり上げていく。

長年の経験と、使い慣れた機械。
2人の職人が、365日一切の妥協なく感覚を研ぎ澄ませて、ここでしか作れないものを生み出し続けている。大量生産が可能な工場では1時間に2000個できるところが、ここでは全て手作業のため1時間に200個ほどが限界。
しかしそれでも「ここの麺が食べたい」「ここの麺をうちの店で使いたい」と、全国各地の飲食店から注文がひっきりなしだ。

「やっぱり、どの麺一つとっても、思い入れがありますね。たくさんの人の期待と、思いが乗っかっているから。『水鳥さんならやってくれるでしょう』なんて言われちゃうもんだから、あーこれは頑張らないとなと(笑)。お客さんの要望にはできる限り応えていきたいですね」

朗らかに笑う水鳥さんに、これまで来歴や製麺にかける思いを聞いた。

旅行会社へ就職。そして知る父の思い。

愛知県豊橋市南部。田原市にほど近いこの地で、創業60周年を迎えた老舗の製麺所がある。飲食店を中心に麺類の製造・卸業を営む「水鳥製麺所」だ
代表の水鳥一さんは、父である先代から店を譲り受けた二代目。今でこそこの仕事に誇りを持ってはいるが、幼い頃は不満もあったという。

「この店は1959年に、今は亡き父が母と始めました。職人気質の頑固な父でねえ…。今のような設備もなくて、父は自分でレンガを積んで釜を作ったりしてね。左官さんが組んだやつは気に入らないとかなんとか…(笑)。おが粉をくべて火を起こしていたんですよ。昔はほら、南京袋におがくずをいくら詰めても50円という時代で、小学生の時はそれが僕の仕事でしたね(笑)。父のことを職人として尊敬もしていますが、子ども時分は寂しかったような思いもありますね

製麺所は朝から晩まで一年中フル稼働。家族で旅行に行った思い出もないという。クラスで「大阪万博に行った人」と問われて、手を挙げなかったのは自分だけ。妹にも聞けばやはり同じで「行ったことないの私だけだった…」と口ごもる。
家族旅行への憧れは募るばかりだった。

そんな少年期を過ごした水鳥さんは、東京の大学を出たあとは家業を継がずに憧れだった旅行代理店へと就職。団体旅行のセールスや手配を担当し、憧れの仕事に精を出した。父は、何も言わなかった。

右も左もわからない世界、飛び込みであちこちに営業をかけた。時代はバブルの真っただ中。旅行業界といえば当時は花形だったこともあり、毎日電話が鳴りやまず、多い時でひと月に4回も海外へ足を運んだことがあるそうだ。入社してわずか3年でチャーター機を手配してホテルを貸し切ったのは、会社が始まって以来の快挙だったと、どこか照れながらも水鳥さんは当時を懐古した。
しかし「旅行」という目に見えない商品を売るのには大変な思いをたくさんしたという。得意先から「石の上にも三年、じゃない。10年は続けろ。じゃないとどんな業界でもモノにならんぞ」と言われたこともあり、なんとか10年は業界に身を置いた。

家業に戻ったのは、33歳になろうとしていたときのこと。自分の中で「やり切った」という思いもあり、凱旋帰国さながらに、実家の敷居をまたいだ。

「忘れもしない。浜松の舘山寺温泉の一番いい旅館でね。盛大に祝ってもらおう、迎えてもらおう、なんて思って家族を集めたんです。そこで『仕事辞めて家を継ぎます』って言ったら、おふくろも妹も「えーっ!」って驚いてね。でもそんなときに、親父が一言。『なんで戻ってくるんだ』って

「俺は自分の代で店を閉めるつもりだ。せっかく大学まで出させてやって、好きな仕事にも就いたんだから、家に戻ってくることない」

父親のその言葉が、水鳥さんに重くのしかかった。

「当時、業界を取り巻く環境はすっかり変わってしまっていました。あたりには大きなスーパーがいくつもできていて、そこでは破格とも思える値段でうどんや蕎麦が売っている。種類も豊富でね。うちはといえば、白玉うどんと、焼きそば、生うどんの3種類だけだった。これでは太刀打ちできないのもうなずけるなと」

しかし水鳥さんは諦めなかった。仕事も辞めてきてしまったし、なによりあの頑固だった父が弱気になっている姿を見ていてもたってもいられなかった。

幸いにも、セールスの腕には自信があった。前職では旅行本を片手に海外を飛び回り、チャーター機や旅館を手配していた水鳥さんは、今度は一玉75円のうどんがぎっしり入った番重(ばんじゅう)を手に、近所のスーパーや八百屋を巡った。

ところが、世間はどこも同じようなことばかり尋ねる。いくらまで安くできるのか?特売には対応できるのか?…。話どころか試食すらもしてもらえず、門前払いを食らったことも少なくないという。
製麺所で作るからこその品質や強みがあるはず。売れないものを売ってこそ営業マンだ、負けるものか」。その一心で、水鳥さんは来る日も来る日も営業を続けた。

そんなある日、とあるスーパーの社長が話を聞いてくれることになった。その社長は開口一番、水鳥さんにこう言った。
自分の商品の弱点を言える営業マンを、俺は信じる」と。

水鳥さんはこの問いに、とっさに「うちの弱点はパッケージです!」と答えた。昔から変わっていないパッケージを、もっとカラフルにして、大手のようにパッケージを大量に作れる専門工場を設けて…。
水鳥さんが矢継ぎ早に言うと、その社長はぴしゃりと言い放った。

「君は、アホか」

頭から冷や水をぶっかけられたような思いで、水鳥さんは社長の言葉を聞いた。

「君は、『キンカン』と『正露丸』と『蚊取り線香』になりなさい。お父さんが何十年も必死に守り続けてきたパッケージを今更変える権利なんて、あなたにはない。これまで愛されてきたパッケージを変えるということは、売れなくなるということも大いに考えられる。だって、他の商品と同じになっちゃうってことだよ?」

父がこだわり続けたこの麺が、他の商品と同じになってしまうことだけは絶対に嫌だった。この麺もパッケージも、うちの歴史。そして父の歴史だ。

それからというもの、今もパッケージは発売当時のまま。昔と同じ機械で、昔と同じように作っているという。

さらに水鳥さんは、自社製品の強みを「大量生産ではできない麺づくり」に絞った。こちらで製造しているのは加水率40~45%の多加水麺。工場では「連続ロール機」と呼ばれる機械で麺を織り込んでいくため、加水率が高いと麺がヨレたりダレたりするが、水鳥製麺所では一回ごとに手動で織るため、この加水率でも耐えられる。手打ちに近い食感で、作ることができるのだ。

そして、顧客がピンポイントで欲しい麺を作ることができる柔軟さも魅力だと考えた。「この料理に使う、こんな麺が欲しい」という問題を解決できる粉を、手あたり次第探してまわる。何度も試作を繰り返し、その都度細かな調整もする。

そんな水鳥さんの心意気が、また別の職人を呼び寄せる。ここにあるどの麺のどの粉にも、苦労話や誕生秘話が込められていた。体もきついが、「この麺を目当てに来てくれるお客さんが増えたよ」「水鳥さんが麺を作らなくなったら、うちも店をたたむよ」と言われるたびに、「まだがんばらないとな」と奮起するのだそうだ。

今では全国に200店舗もの顧客を抱えるまでになった水鳥製麺所。
水鳥さんの心を支えるのは、顧客の思いと、ともに働く家族、亡き先代。
そして、ある中華料理屋の主人の存在だった。

第2回につづく>

コメント

この記事へのコメントはありません。

RELATED

PAGE TOP