生粋人

<第2回>僕を突き動かすのは、“直感”。境界線の、先にあるもの。 ――音楽家・太田豊

太田豊・18歳。もがいて、あがいた東京。そしてヨーロッパへ。

あるとき、富山のライブハウスに著名なジャズピアニスト・山下洋輔氏の率いるバンドがやってきた。自分の演奏を聴いてもらえるいい機会だと、なんと太田さんはライブ後の楽屋に突撃したのだ。憧れの人物が目の前にいる。それだけでアドレナリンが放出した。

「今考えれば、すごいことしたなと思うよ。だって相手はあの山下洋輔だからね(笑)。そんな生意気なコゾーの僕を追い返すこともなく、山下さんは言った。『いいだろう。ライブの打ち上げは演奏ができるバーにしてやるからついてきな』と」

適当に演るから、あとは好きに入って。アルト(サックス)が吹きやすいようにE♭で流してやるから。
山下さんがおもむろにそうつぶやくと、バンドによる演奏が始まった。
改めて圧倒される、プロの実力。

太田さんが一音も吹けないまま、夢の共演は終わってしまった。

うなだれる太田さんに、山下さんはこう言ったという。東京で、多くを見て学べと。

太田さんの通う高校は、地元でも有名な進学校だった。しかしジャズに出会ってからというもの、手にしているのは参考書ではなくサックス。「東京の予備校に通うため」と親が用意してくれたいくばくかのまとまった金額は、念願だったセルマーのサックスとなって太田青年を潤した。
「膝から崩れ落ちる母親を見たのはあれが最初で最後」だったそうだ。

うまくなりたい。悔しい。見返したい。もっと外の世界を見たい。その直感が、太田さんを東京へと呼び寄せた。

「本当に山下さんを訪ねて行ったときは、ご本人も驚いていたな(笑)。それからというもの、ジャズサキソホニストの林栄一さんの付き人をしたり、クビになったり。ライブハウスに通っては演奏し、演奏しては打ち上げでダメ出しをもらって。寝て起きてバイトに明け暮れて…。そんなことばかりしていた。20歳になったある時、ひょんなことから、大きなバンドの一員として演奏することになった。今思えば、周りの大人の優しさというのかな。“虎の穴”的なね。厳しい環境にとびこんでいけと。それが“渋さ知らズ”だった」

渋さ知らズ。1989年に結成されたジャズバンド。ときに前衛的でありながら、ジャズ以外の要素もふんだんに織り込まれた、独自のスタイルを貫くバンドだ。フジロックフェスティバルへの出演、さらにはヨーロッパ各地でも公演を続けた。もちろん太田さんも、その一員としてヨーロッパに出向き、現地でがむしゃらにサックスの腕を磨いた。

バンドは国内外問わず、大盛況。しかしそれと同時に太田さんを支配していった感情は、意外にも“劣等感”だった。

「なんていうのかな。バンドが人気になればなるほど、自分の実力のなさが露呈していくんだよ。でもどうしたらいいかわからない。どれだけ練習しても、もがいてもあがいても、多分自分の中では満足できないと思った。サックスを吹くのがつらいとさえ思ってしまったからな。このままじゃ、続けられないと思った」

バンドからの離脱を決意した太田さんは、その後学業に専念。

太田さんの手から離れたサックスは、ケースにしまわれたまま開かれることはなかった。

第3回>へ続く

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