名古屋、そしてアメリカ、アフリカ。外へ出て初めて気づいた“建築”。

いずれ独立をしたいと考えていた鶴田さん。手っ取り早く現場でノウハウを学びたいという思いから、当時高級住宅や著名人の居宅などを請け負っていた建築会社へ入社した。
入社直後から、いきなり現場に放り出された。職人はみな、手取り足取り教えてくれるわけではなく、まさに“たたき上げ”という言葉がぴったりの毎日を過ごしていた。とても名前を出せないような有名な人の居宅を手掛けていた鶴田さんは、プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、必死に技術を学んだ。

現場監督として働くこと2年。鶴田さんは、次の行動へ移す時が来たと確信していた。

「アメリカでバックパッカーしたいって、自分の中でもう決めてたんです。2年現場で頑張ったらアメリカを旅して、帰ったら設計事務所で就職して、それから独立して自分で稼ごうって。そういうプランを描いていたんです

入社当初から有名な建築物を任されたこともあり、自分ではやりきった感もあった。すっぱり辞めて新たなステージに行こう、と上司に退社の意を申し出た。
ところが上司は大反対。これ以上ないほどに、こっぴどく叱られたという。

社会をなめんじゃねえよ、って。そう言われました。ひとつの建築をつくるのに、どれだけの人が携わっていると思っているんだ?自分勝手に、一人で生きている気になるんじゃねえぞ。って

けれど今になってこの言葉の真意がわかるような気がする、と鶴田さんは付け加えた。「あのときの僕は本当に自分本位だったし、そんなことではこれから先、社会で絶対につまずくぞ。そう言いたかったのだろう」とつぶやいて、思案するように顎に手をやった。

その一言で身を引き締めた鶴田さんは、退社の日の前日まで、与えられた仕事を丁寧にきっちりこなした。立つ鳥跡を濁さず、とはこのことだ。
そんな鶴田さんを見て、上司は黙っていくばくかの餞別も持たせてくれた。
大きな経験と恩を胸に、鶴田さんは単身アメリカへと渡った。

現地でアルバイトをしながら、アメリカ中の建築を存分に見てまわった。文化や民族性、生活も体感した。やがてパリに渡り、タンジールからモロッコの市街地を視察。そして旅の起点であるアメリカ・ロサンゼルスへと戻った。じっくり1年もの年月を費やした。

「これ以上いたら楽しくて日本に帰れなくなる、アメリカ人になりたくなっちゃうと思ってね(笑)。だってカリフォルニアなんかとっても過ごしやすいんだもの(笑)。これはいかんな、と思って帰国しましたよ」

そう言って鶴田さんは笑うが、この旅の一年はとても大きく、改めて思い知らされたことがあったという。
それは、「日本人としてのアイデンティティ」だった。

アメリカの辺鄙なところに何もかも失くした浮浪者がいたり、かと思えばモロッコのマラケシュにある城壁のそばでは人が野垂れ死んでいたり。日本はすごい国なんだ、日本人でよかった、とその時初めて思いました

日本の暮らしの、なんと恵まれていることか。
日本だから浮浪者にならずに済むし、道端で野垂れ死ぬこともない。さらにいえば、先進国の中で日本が唯一の有色人種だった当時、海外にいながらも自動車や家電、日用品など、良いものは全て日本製だった。
日本に生まれたこと。日本人であること。日本で暮らしていけること。
そして、日本のモノづくりのすばらしさ。
当たり前だと思っていたアイデンティティに、鶴田さんは感謝したのだった。

金持ちになって成功して、独立して…。
それまで描いていたプランなど、なんの意味も持たなくなった。
日本人であることを誇りに思い、日本のモノづくりに携わりながら、世のため人のために尽くそう。
鶴田さんはその思いを胸に、再び日本の地を踏んだ。

帰国後の鶴田さんを待っていたのは、経験と恩をくれたあの人だった。

<第3回へ続く>

2 件のコメント

  • アメリカでアイデンティティと向き合うご経験が今の礎なんですね!同じく日本を無意識的に意識しながら僕も高校大学(アメリカ)に通っていたので、僕は鶴田さんを追ってるみたいな足跡です笑 同じ西海岸に一年後に僕は行ったんだなと初めて知りました。

    • 倉橋岳様
      海外から見た日本は、きっと気づくところが本当に多いのでしょうね。
      確かにご来歴からすると、岳さんは鶴田さんの跡を追っているようですね(笑)
      「日本を無意識的に意識していた」というお言葉に重みを感じます。
      今のご自身を形成するのになくてはならない、大切な時期だったのですね。

      光田

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