<最終回>“忘己利他(もうこりた)”の精神。――延命寺法嗣・村上圓学

極限状態で挑んだ、京都・葛川村での5日間。

平成29年7月2日、百日回峰行、満行。
その後7月16日から5日間、葛川村での修行が始まる。百日回峰行とはまた別の厳しさがあるという。
始まるまでの2週間、どのような思いでいたのだろうか。

まずは、ちゃんと眠れることが幸せでしたね。でもどうせなら勢いで行ってしまいたかったです(笑)。2週間空いてしまうよりは、気を保ったまま続けて行いたかったですが、日程的にそうはいかなくて」

百日・千日回峰行を終えた僧が連なって、比叡山から葛川村まで約30~40kmを歩いて向かうという。
足音と念仏のみが延々と聞こえる、圧巻の行列であろうことは想像に難くない。
そこで行われる修行。その実態を恐る恐る尋ねた。

「いや…実はあんまり覚えていないんです」

私は思わず目を丸くしてしまった。

「いえあの、壮絶すぎて。記憶が断片的です。すみません。でも一言で表すなら0泊5日の行です。とりあえず一睡もしていませんし、何日目に何をして、というのは…覚えていないんですよね。小刀で仏様を掘ったり、一日3回のお勤めの準備としてお堂を掃除したり食事の準備をしたりしたかな。ずっと動き回るんです。休むヒマなく。己をさらに追い込み、己を律するために必要なことです」

百日間、山の中で修行に耐えた人でさえも、記憶をなくし、自我を忘れてしまうほどの5日間。途中で脱してしまう僧もいるという。
一体どれほどの思いだっただろうかと、その心中は計り知れない。

「でも、お坊さんの修行がなんでもそうとは限らないですよ。百日回峰行が、葛川という場所が、特別なんです。ここだけタイムスリップしたような。そんな気持ちになります」

そんな葛川での5日間を終え、無事に修行を達成。
修行を終えて学んだこととは?愚問にも思えるが、あえて尋ねてみたかった。
私のこの質問に、村上さんは何かを思案したのち、少し天を仰いだ。

「そうですね。修行のさなか、いろいろな人の“心”が見えます。私たちを思ってくださる地域の方の御心、故郷で自分の無事を願っていてくれる親の御心。極限状態の中で思わず己を忘れてしまった僧たちの御心も。いいことだけではなく、醜い部分も大いに感じました。もちろん自分にもです。
だからこそ、全ての人にやさしく、いいところを探しながら、人を思いやって生きていくことの大切さを学びましたね。あのとき阿闍梨様が『人に丁寧に接してきただけ』と話した意味がようやく分かったような気がしています。
私自身、まだまだ修行の身ですが、自分を犠牲にしても他人を幸せに。“忘己利他”の心でいたいですね」

人は、人とのかかわりなしには生きていけない。その途中、衝突が起きてしまうのは避けられないだろう。
しかし、そんなときにこそ、『自分にも至らない点があったかもしれない、相手のいいところを探そう』と思うことが大切なのだ。
そしてその輪を、広げていく。
自分が変われば、周囲も変化する。
「そうすることで、やがて争いのない、平和な世界になると信じています」と村上さんは微笑んだ。

村上さんが唯一、己のことのみを考える時。
それは一日が終わるときだ。

今日の自分はどうだったか、他人に対してどんなふるまいをしていたか。それを毎日、布団の中で考えながら眠りにつきます。明日への活力になるし、私らしくいられる原動力でもあるのです」

Photo:荻野哲生
Text:光田さやか


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