生粋人

<第1回>一滴、乾坤を潤す。“磨き続ける”覚悟。——浦野合資会社 杜氏・新井康裕

古くから「神と酒と人」は切っても切れない縁にある。
神に祈りを捧げる際は御神酒を供えるし、その年にできた新酒で吉凶を占う酒占(さかうら)という儀式が行われる土地もある。酒を手にすれば人と人との距離も近くなるし、神に供えた酒をいただくことで、神と人との結びつきも感じてきた。

この、酒造りに魅せられた人がいる。
難しいけれど楽しい。難しいから楽しい。蔵を案内してくれた彼の生き生きとした表情からは、そんな思いがひしひしと感じられた。

微生物の研究から酒造りの道へ。やがて目指した「杜氏」。

愛知県名古屋市から入り豊田市、そして長野県へと通じる道、飯田街道。三河地方で盛んに生産された塩を運ぶ道でもあったため、別名「塩の道」とも呼ばれている。街道らしい名残を残す街並みに佇むのが、愛知県豊田市にある『浦野合資会社』だ。元治元年(1864年)、三河の霊峰・猿投山の南麓に位置する猿投村(現・豊田市)に創業した同社。崇敬する猿投神社から天然記念物である「菊石」の名を受けて以来150年以上、伝統的な手法をもとに銘酒・菊石を製造している。

 この蔵で杜氏を務める新井康裕さんは、酒造り——もとい、微生物に魅せられた人。

「子どものころから化学の実験や生き物を育てることが好きで、大学でもそういう勉強をしていました。大学三年で進路を決めるときに、微生物の研究も面白そうだなと思い、そちらの道に進むことにしました」

折しも、新井さんが通っていたのは国内でも有数のワインの名産地・山梨。こと“発酵”については常に身近にある環境だった。ワイナリーや酒蔵の実地見学も頻繁に参加したという。菌や酵母が作り上げる神秘的な世界に魅せられた新井さんは、試験管やフラスコを振っては研究に勤しんだ。学部の先輩の多くは、ビール製造会社やワイン蔵、酒造メーカーに就職していたため、折に触れて自分たちの蔵で造ったお酒やワインがたっぷり送られてきたそうだ。
「役得ですがたびたびご相伴に預かったものです(笑)。なによりそのお酒を飲むたびに、自分達が造ったぞ、と誇らしく微笑む先輩方の顔が浮かぶようでした」

 転機となったのは、先輩が勤める酒蔵を見学しに行った時のこと。長野の有名な酒蔵であったが、そこで行われている伝統的な酒造りを目の当たりにして感動した新井さんは、自分の進むべき道を日本酒造りに決めた。最初に就職したのは、大手酒造メーカーだった。パックやカップの酒を機械で製造する、大量生産の現場だ。

「もちろんそういう酒も需要がありましたし、とても勉強になる職場だったのですが、僕の中ではやはりあのとき酒蔵で見た手仕込みの製法が忘れられなくて。それで、ちゃんと杜氏さんのもとで修行したいと思ったんです」

 三年半ほど勤務して移った先は、名古屋でも老舗の酒蔵。同社では、酒を仕込む季節になると新潟から杜氏と十数人の職人が訪れ、冬のあいだ蔵に泊まり込んで酒の面倒をみる「越後流」で酒造りが行われていた。その発祥は古く江戸中期にまで遡る。冬季にのみ醸造する「寒造り」が主流であった当時の日本酒製法において、米の収穫を終えた越後の農家たちが関東や尾張地方へと出稼ぎにきたことに由来している。
杜氏が減少しつつある現在でも、この製法は日本各地で行われている。新井さんはこの製法を、越後杜氏のもとで直に教わった。

「職人さんは酒造りに厳しく、一途な方ばかりでした。普段は気軽に話しかけることもできないような。でもたまにですけど、『お前今日飲んでくか』なんて誘っていただいたりして。そのまま一緒に蔵に寝泊まりしたこともありましたよ。しこたま飲まされて、翌日使い物にならない僕を見ては皆さん楽しそうに笑っていました。職人の世界の洗礼みたいなものでしたね(笑)」

 職人の技術、気概、気迫。彼らの酒造りに関わる全てを残さず新井さんは吸収し、その度に手仕込みの酒の素晴らしさを実感した。そして、やがてこう思うようになった。僕もいつか自信を持って酒造りがしたい。自分の酒を造ってみたい、と。

 新井さんに、新たな転機が訪れようとしていた。

第2回>へ続く

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