生粋人

<第2回>“干渉、影響、新結合”。人と技術と素材が織りなす「MOARE」の照明。「柿下木材工業所」柿下孝司

大火事からの復活。フランスでの違和感を原動力に。

松下電器(ナショナル)との取引で一気に照明器具の生産が増え、好調な売上を記録していた柿下木材工業所。ちょうど、柿下さんが高校生くらいの時のころだった。

「学生時代はバスケ三昧でしたね。中学・高校では全国大会にも行くくらいだったんです。そんな学生時代を過ごしていましたが、そのころは『アメリカは日本より10年進んでいる』なんて言われていて。だから父の勧めもあり、見聞を広めるつもりでアメリカに留学をしていました。向こうで1年間英語学校に行って、2年生の大学も卒業し、その後、四年制大学にも編入を予定していました」

照明のデザインや語学の勉強のための留学でも、バスケの留学でもなく、見聞を広めるための渡米。家業を営む主ならば、少しは後継のつもりで柿下少年を送り出してもいいようにも思うが、当時父親からはあまり後継について話されたことはなかったと、柿下さんは振り返る。

そしてある年の冬、日本に一時帰国した柿下さんは、父親から「フランスで飛騨の家具を集めた展示会が開かれる」と聞かされた。ちょうどその展示会に自社のオリジナル製品を出品する予定だったこともあり、柿下さんは通訳としてフランスへと同行した。
そしてパリでの展示会「メゾン・エ・オブジェ」で1週間の展示を終えて帰ってきた、2月のある日。

工場が、火事に見舞われた。

オイルフィニッシュによる、自然発火が原因だった。

「普段、商品をオイルで拭き上げするんですけど、そのときに使ったウエスの内部に熱が溜まって……。自然発火だったんです。夜中の2時ということもあり、幸いにも工場には誰もいなかったため、人的被害はなかったですが、なにせフランスでの展示会を終えたばかりですからね。工場にはオリジナル製品のための部品もたくさんありましたし、もしかしたら、現地で受注などもしていたかもしれませんね。それが、一夜にして全てダメになってしまったんです。
2月のとても寒い日でね、よく覚えています。消防署長をしている、友人の父親から一報が入って火事に気づいたんです。澄み切った夜空に向かって煌々と火が燃え上がっていく様子は、もう諦めにも似た感情で、呆然と立ち尽くしてしまいましたよ」

その後、さらに不幸が追い討ちをかける。
創業者である柿下さんの祖父・柿下孝一さんが亡くなったのだ。

フランスから帰国して1ヶ月少々の間に、柿下さんは工場と、その生みの親を立て続けに失った

あのころは、工場を立て直すのに必死で、実はあまりよく覚えていないんです。僕も、まだ向こうの大学に通うつもりで一時帰国という形だったので、急遽こっちで手伝うことになりましたし。
鉄骨だけは焼けずに残っていたので、そこをブルーシートで覆ったりして。でも覆いきれなくて、隙間から雪がちらちら舞い込んでくるんですよ。氷点下の風が強くて、雪も降る中での作業でしたので、寒くて寒くてね。スケルトンなので、ほぼ外での作業に近かったんです。
でも、特に父親が大変だったと思います。家族も従業員もいるなかで、一日も早く復帰に向けて行動しなければならなかったんですから

波乱の幕開けとなった、柿下さんの社会人1年目。
地域の人や客先は、状況を慮って労いの言葉をくれたり、炊き出しをして元気づけたりしてくれたが、製造業従事者たるもの一刻も早く商品を納品して仕事を生まなくては話にならない。
父親は1週間で簡易的なプレハブ小屋を建て、できるところからすぐに生産に取り掛かったそうだ。

「1つでもいいから、商品を出すんだ!」。そんな父親の声が今でも耳に残ると、柿下さんは言う。
何を差し置いても、今はまず顧客が求めるものを提供するという、ものづくりの技術者としての責任が、柿下さんの父親を突き動かしていた。

そんななか、社会人になったばかりの自分でも力になれたことがあったと、柿下さんは話す。

「当時、アメリカのテクノロジーはやっぱり日本より10年くらい進んでいて。僕は現地でEメールも使っていたし、エクセルでデータ管理などもやっていました。だからそれをこっちでも活かして、工場の在庫をデータ化したり、どこに何があるかを表で一覧にしたりなど、バックオフィス作業を一部デジタル化できた部分は自分が強みを活かせていたと思います」

加えて、幼い頃から働く親の姿を見て育ってきたというアドバンテージが柿下さんにはあった。
ものが原材料からできていく様子。素材を活かすところと、人が手を加えるところの線引き。丁寧に仕上げをする大切さ。品質管理の厳しい目線。
ものづくりに大切なことは、全て大人がその背中で、教えてくれていた。

なんとか工場を立て直した2006年、とあるプロジェクトが立ち上がることになる。

岐阜県は当時、地場産業の振興を目的とした商品開発プロジェクトをすすめており、その中の1つである「海外デザイナー招聘プログラム」に柿下さんは思い切って手を上げたのだ。
海外の名作照明といえば北欧のデザイン、という発想で、北欧のデザイナーを紹介してほしいと依頼。
今まで受注生産が主だった柿下木材工業所にとっては、初めてとなる商品開発だ。

そこで柿下さんの脳裏にある言葉が蘇る。2000年、フランスでの展示会で客に言われた一言だった。

現地の人から、ニッポンには『イサム・ノグチ』の照明しかないのか?って言われたんですよ。これが自分にとっては衝撃的で。確かに、イサム・ノグチの照明は海外でも有名でした。もちろん今でもそうです。でも言われてみれば、そうなんですよね。当時は業界のことをあまり知らない僕でしたが、長く使われている日本の有名な照明ブランドと言えるものを聞かれて、答えられなかったんです

イサム・ノグチといえば「AKARI」シリーズに代表される照明があまりにも有名だ。1950年ごろのシリーズ開始以来、国内外で多大なる人気を博し続けている。しかし日本の照明器具といえば、そのほとんどが大手家電メーカーに依存しており、経済的に消費されリフレッシュされていくものばかりだった。
一方「暮らしの居心地」に重きを置く北欧では、そうではなかった。職人が自身の強みを活かし、それぞれに魅力や個性を活かしてブランドを作り上げていた。

フランスで言われたその言葉は、6年間、柿下さんの心のどこかでずっと引っかかっていた。
木工職人の強みを活かして照明器具を作りたい。
火事で一度は途絶えたオリジナルブランドへの道を、もう一度歩んでみたい。
オリジナルブランドで、世界へと展開したい。

そしてその思いはようやく形となる。

<第3回>へ続く

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