深く学んだ西洋史。そして知ったフィールドワークの大切さ。
太田先生のような教員になりたいという思いを持ち続けた竹中さんは、大学1年生のころから教員採用試験の勉強を始めた。当時は、社会科の教員は倍率200倍ともいわれていたというが、中学生のころから抱いていたモチベーションを、どう保ち続けたのだろうか。
「僕はとにかく、子どもの時から学校にいるのが楽しかったんだ。友達がいて、新しいことを学べて。高校で腐りかけてた時も、太田先生と出会ったことで、また勉強が楽しく思えた。あんな先生になりたいとさえ思えた。だから僕は、来るのが楽しくなる学校を作りたかった。そんな先生になりたかった。学校がイヤだとか、家に居場所がなくて学校に助けを求めている子ども達を救いたかった。その一心だね」
そんなあるとき、とても難解な西洋史のレポートを提出する機会があった。先輩たちがみんな頭を抱えて取り組んだ中、竹中さんの書いたレポートが秀逸だと教授に褒められたことがあったそうだ。もともとフランス革命に興味があったこともあり、歴史学の中でも西洋史をしっかり勉強してみたいという思いに駆られた竹中さんは、教員採用試験の勉強と並行して西洋史への造詣も深めていった。
大学3年生になるころには、周りからこんな言葉が聞こえ始める。「竹中君、大学院に行かないの?そんなに西洋史を学ぶのが好きなのだから、研究者になるんだと思った。もったいないね」と。
いや、違う。教師になるためにここへ来た。浪人までして、教師への道を歩んでいるはずだ。しかし、西洋史をもっと学びたいと思った自分もいる。
竹中さんは自問する。そして大学3年生の2月までたっぷり10か月悩み、決断。
教員採用試験の受験を見送り、4年生の1年間を大学院で西洋史を研究するための勉強に費やすことにした。
「ただ、どうせ行くなら京大だ。京大の大学院だと思った。決めたからにはウジウジ言ったってしょうがない。やれるだけやらないと」
竹中さんの行動の源は、いつだって前向きなパワーだ。悩むときは悩む。どれだけ時間をかけても、納得のいく結論が出るまで悩む。そして決めたらもう悩まないのだ。ただ、問題は親だった。心配され、反対されることを怖れて、教員を諦め京都大学の大学院に進学することを大学4年の10月まで親に話していなかった。
耐えかねた母親が大学に電話してきたことで、「ちゃんと親には相談しろ」と教授からは大目玉をくらったそうだ。
めでたく京都大学の大学院に進学し、西洋史を学んでいた竹中さんだったが、歴史に関する興味は常に広く持っていた。それは教育大学にいた時の経験が大きいという。
「教育大学って、みんな教師になりたいやつばかりだから、結束が強いというのかな。西洋史とか東洋史とか考古学とか、専攻はいろいろなんだけど、その垣根を越えて横のつながりが深かった。だから、日本史専攻の友人がフィールドワークに行くといえば面白そうだからとついて行ったし、そこでまた違った観点のモノの見方ができるようになる。日本史ではこうだけど、西洋史ではこういう解釈だったな、とか。考古学だとこれにはこんな価値があって…とか。多方面からモノを見ることができたのは大きかった。それと同時に、現地に赴くことの大切さを知った」
今でも竹中さんは、教え子を連れてフィールドワークに出かける。大学や専攻なんかは関係ない。興味があるなら誰でも連れて行く。西洋史だけでなく、日本史の観点から、あるいは人々の営んできた生活や環境の観点から、過去の姿を学生に伝える。現場に重きを置き、多角的に歴史を見ることができて初めてれば、理解できるものがあるからだ。
「歴史はな、現場に立つとまるで違って見えるんだ。だから面白い」
屈託のない笑顔が、そのすべてを物語っていた。
<最終回へ続く>
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