過酷な“4年間”で得た気づき。やがて決断する人生のビジョン。
京都教育大学を卒業後、私立高校の数学教員として働くことになった永目さん。
しかし、実際の教育現場は想定していたより過酷なものだった。
授業の準備、テストの採点、大量の事務作業に、職員会議。休日にはラグビー部とバレー部の顧問としての業務もあった。全国大会に出るほどの実力がある彼らの練習を見守り、安全に帰宅させたあと、再び職員室で翌日の授業準備を始めるのが21時ごろ。そこから帰宅すれば、自宅に着くのはいつも深夜0時を回る頃だった。
帰ってもすぐに寝てしまうのが勿体無いという思いからなかなか寝付けず、少しは好きなことをしてからとゲームをしながら寝落ちしてしまい、気づけばもう朝という生活が続いた。家を出るのはいつもぎりぎりだった。
朝は8:10までには必ずパソコンを起動させ、タイムカードを押さなくてはならなかったため、少しでも睡眠時間をとるためにスーツを着たまま寝たこともあるという。
やがて気持ちも不安定になり、再び心療内科にも通った。
人権があるとは言えないほどの酷な生活だったが、生徒たちのためを思えば耐えることができた。
生徒にわかりやすい授業をしたい。楽しく学校に通ってほしい。納得のいく進路を実現してほしい。
これまで自分が経験してきた全てと、経験できなかった全てを、教員として生徒たちに実現してあげたい一心だった。
そんな日々の中で永目さんは一度、ホリエモンこと堀江貴文氏の講演会に出かけたことがあった。
「大学4回生のときに、友人に勧められてホリエモンの本を読んだことがきっかけで、彼の考えにすごくハマっていたんです。有料のメルマガも長年購読していましたし、いつかはホリエモンみたいに起業してみたいなと思っていました。教師になってしばらく経ったころ、ホリエモンの講演会に行く機会があったのですが、そのとき参加者からの質問コーナーみたいなのがあって、そこで大学生くらいの子が『自分にはやりたいことがなくて困っています』って言ったんですよ。そのときのホリエモンの返しが、忘れられなくて。
『君さあ、新垣結衣ちゃんと付き合いたい?』って聞いたんです。するとその子は『まあ、そうですね……』ってスカして照れながら言っていたんですけど、そしたら『じゃあそれがやりたいことの1つじゃん。どうせ付き合えないとか思って、気持ちにフタしているだけでしょ?別にテレビ局に入るとかマネージャーになるとか、制作会社に入ってガッキーをCMで使うとか、接点を持つ方法なんていくらでもあるじゃん。やらないだけなんじゃないの?』って言ったんです」
その言葉に、永目さんははっとした。
もしかしたら、教師も似たようなものではないだろうか。
本当はこうしたい、こうなったらいいのにと思っても、行動に移す人は教育の現場には誰もいない。もっと言えば、生徒には「もっと勉強しろ、部活を頑張れ、いろいろなことに挑戦しろ」と指導する立場でありながら、教師自身がなにもチャレンジしていないではないか。
学校という狭いコミュニティで生きている教員は、会社員に比べると普段知り合う人も格段に少ない。
教員こそ、もっと広い世界を見るべきではないか。もっと人との出会いを楽しむべきではないか。
そうでなければ本来は、子どもたちになにも教えられるはずがないのだから。
そう思った永目さんはついに、4年勤めた私立高校の教員を辞めることに決めた。
周りには「先生を辞めちゃうなんてもったいないね」と惜しまれたが、「やりたいことをやらない方がもったいないだろ」としか考えられなかった。
実はそのとき、永目さんと同じタイミングで教員を辞めた男性がいる。
教育現場の現実や学校教育そのものが抱える課題に疲弊し、日頃から意気投合していた2人は、子どもたちが自由に学べる環境をつくろうと、思い切って一緒に退職して起業することにしたのだ。
2014年の春のことだった。
「その相方が名古屋に縁があったので、そこで起業することにしました。名古屋市の緑区に一軒家を借りて、一番大きい部屋を教室に、他の部屋をそれぞれの住まいにして、学習塾兼自宅みたいなシェアハウスをやろう、と計画していたんです。
……でも、うまくいきませんでした。その先生との共同生活で距離が近くなるにつれ、生活習慣の些細な違いや、お互いのいろいろなところが見えてきてしまって。そうなってくると、塾の方針についても意識のズレを感じるようになって。結局、3ヶ月も経たないくらいでしんどくなってしまい、僕から辞めたいと申し出ることになりました」
塾の開業資金も使い果たしていたため、見知らぬ土地・名古屋で一気に極貧生活となってしまった永目さん。一番大変なときで、銀行残高が3000円ほどしかなかったそうだ。一年間は水と豆腐を主食として飢えを凌いだと言う。「ちょっとお金に余裕があるときは、豆腐にレトルトカレーをかけて食べるんですが、それがもうとにかく最高でしたよ!」と笑いながら話すが、当時の暮らしぶりは察するにあまりある。
そうこうしているうちに、小中学生向けの塾で講師のアルバイトが決まった。資金繰りのためと、塾経営の内情を知るためにも、塾講師を経験しておくことは必要だと感じていた。ほか、高校の非常勤講師としても採用されたこともあり、極貧生活からはなんとか脱却できた。
「塾講師ね、楽しかったんですよ。これまで、高校生しか教えてきた経験がなかったんですが、小中学生の指導も楽しいなって思ったんです。学校の勉強でつまづく子もいれば、中学受験で頑張る子もいて、それぞれにドラマがあるなって。
僕が勤めていたのは、『ess(est super school)』という塾だったのですが、会社の方針で、楽しいイベントをいろいろ企画するような塾だったんです。名古屋の天白区から豊田市の山奥まで、55km夜通し歩き続ける行軍のようなイベントも大人気だったし、年末になると中学3年生を対象に徹夜合宿というのがあるんですけど、勉強ばかりじゃなくて教員たちが脱出ゲームを企画して遊んでもらったりして。やっぱり、勉強する場が楽しいって、いいなって思ったんです」
アルバイト講師として1年ほど経った頃、同塾で社員として登用が決まり、講師だけでなく教室長も経験することができた。塾の経営や運営、保護者との関わりも学び、なんと社員2年目にしてエリアマネージャーを任されるまでになった。さらに、新教室の開校や学童保育事業の立ち上げにも携わると、それに比例するかのように生徒数もどんどん増えていった。
生徒が喜ぶなら、なんだってする。こちらが頑張ると、生徒も応えてくれる。そしてまた、そんな生徒のためになんだってする。
そんな好循環は、永目先生にとって心地よいものだった。しかしそこでも頑張りすぎがたたってしまい、人生3度目の心療内科通いが始まり、退社することとなる。
その後は、名古屋で予備校講師をしている大学時代の友人に紹介され、医学部専門の予備校講師へと転身。医学部受験という明確な目標のもとに集う学生たちのために、自身も必死で尽くした。
がむしゃらに教育と向き合い続ける日々を送るうちに、ここでもまた新しい出会いが訪れる。
「僕を予備校講師に引き入れてくれた友人が、大阪にある大学受験の予備校の経営者と知り合いで、紹介してくれたんです。その方は僕のこれまでのキャリアや教育に対する思いに非常に共感してくれて、『ちょうど欲しかった人材だ』と言って、招いてくれたんです。そして現在に至る、という感じですね」
教育の現場に憤りを感じて私立高校の教員を辞めてからというもの、永目さんは5年足らずで実に多くの経験をした。
その都度、肩書きも職業も変わったが、永目さんの中にはずっと揺るぎない価値観があった。
それは「子どもたちが笑顔で楽しく学べる場を提供できる人でいたい」というものだった。
「たとえばですけど……学生さんはみんな、職業名で夢を決めますよね。『◯◯屋さんになりたい』って。でも僕は、そうやって決めなくてもいいんじゃないかなって思います。たとえば、看護師になりたいという夢があったとして、それを叶えられることは素晴らしいと思うけど、叶った後のビジョンを持っていないから苦しんでいる人が多い気がする。教員時代の僕がそうだったように。
だけど、『病気の人を笑顔にできる人になりたい』というビジョン型の夢なら、仮に看護師が合わなかったとしても、医療器具を作る人になってもいいし、病院を回ってボランティアをする人になってもいいし、いろいろな方向性で叶えられると思うんです。そして、その夢は一生追い続けることができる。
そう思うと、僕自身も、いろいろな職業を経験してきたけれど、そこにはブレないビジョンがあったんだなって思います。僕は子どもたちを笑顔にするために、狭いコミュニティの中でくすぶっていないで、たくさんの人と出会う教育者でありたかった。その過程で自分が理想とする教育を提供したかったんだと、今ではそう思います」
こうして永目さんは、人との出会いを通じてさまざまな活動をしていくこととなる。それこそ、驚くべきやり方と、ユニークなスタイルで。
まだ語られていない彼の姿を、どんどん掘り下げていってみよう。
<最終回>へ続く
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