生粋人

<第2回>“自分のため”の街づくり。人と風景に溶けて生きる。——「奥松阪」・高杉亮

名古屋から松阪へ。無駄に悩まず受け入れる姿勢。

   

名古屋でデザイン事務所を立ち上げ、仕事も順調だった高杉さん。松阪市を訪れたきっかけは、クライアントからの一言だった。「自身の店を作るにあたり、三重県松阪市の仕入れ業者のところへ行くから一緒についてきてほしい」というものだった。

足を運んだのは、松阪市の中間部に位置する嬉野(うれしの)という地域。のどかで穏やかなこの場所を、高杉さんはとても気に入った。現地の人に、半分冗談のつもりで「このあたりでいい物件あったら教えてね」とは言ったが、その半年後に本当に連絡があったときは驚いたという。しかし同時に、「これも何かの縁かもしれない」と感じていたそうだ。

高杉さんは、再度嬉野を訪れた。今度は、ご両親も一緒にだ。

いいじゃんここ、買いなよ、って。僕が買ってあげるとかじゃなく、買いなよって薦めて(笑)。両親はもともと晩年は田舎暮らしをしたいと言っていたし、ちょうどいいと思ったんです。そして古民家を購入して、僕と兄と親父とでリノベーションをしていきました」

何を隠そう、高杉さんのお兄さんは一級建築士。古い家屋の解体も、リノベーションもお手のものだった。大工にも手伝ってもらいながら、高杉家の「別邸」が完成した。

これで、悠々自適な別荘ライフが送れる……はずだった。
別荘の隣の家を取り壊し、代わりに太陽光パネルを建設するという話が持ち上がったのだ。

「家の前にソーラーパネルがあるの、ちょっとやだなと思って。地域の農家のおじいちゃんと一緒に、その家の所有者の方に行って、考え直してもらえないかとかけ合いました。するとその方は『じゃああなたがたにこの家を売るから、好きにしたらいい』と言ったんです。
いきなりもう一つ古民家を持つことになって、どう活用しようか考えました。そのとき一緒に話をしにいったおじいちゃんが、玄米でできている『玄米棒』という餅を自分で焼いて作っていたので、ここをその製造工場にするのはどうかと思い立ちました」

思い立ったら、まずは行動。高杉さんは玄米棒の製造ができるように古民家を改造し、同時に菓子の製造免許も取った。小さいながらも、古民家は見事に玄米棒工場へと再生。嬉野が、にわかに活気づいた。

高杉さんはその様子を自身のSNSで発信していた。その投稿を見て連絡をしてきたのが、松阪市の市役所職員だ。友人のアドバイスもあり、一度市役所へ話を聞きに行くことにした。
街づくりの担当者とは意気投合。そして「地域おこし協力隊」への参加を持ちかけられたのが、今から2年前のことだ。

募集要項によれば、この地に住民票を移し、活動終了後も松阪市への定住を検討することが条件。

自身の身の振り方を、考えるようになった。

「仕事の拠点や自分の住まいは名古屋にありましたし、松阪の街をどうこうしたくてこの場所を訪れたわけでもない。でも、妻の実家が偶然松阪市であるということや、家族の別荘もこっちにあるということ、あとは僕自身に名古屋への執着がなかったことなどが影響して。いつかは松阪に住むのかも、と10年後くらいのつもりで漠然と考えていたことが、今目の前で向こうからこっちへ来てくれと言ってくれている。だったら無駄に悩むより、今のタイミングで移住してもいいかも、と思うようになったんです

無駄に悩まない。ここでなくてはできないことなどは、ない。
なぜなら、人生にはいつか終わりが訪れる。いつやろう、いつかやろうと考えていては、時間がもったいないからだ。

加えて、仕事に対する自身の意識の変化も影響していた。年齢を重ねるに連れて、いつまでデザインの仕事ができるのだろう、クライアントはいつまで自分に頼んでくれるのだろうと、ぼんやりと考えるようになったのだ。この仕事が好きだからこそ生まれる、将来への不安な思い。だからこそ、頼まれたモノをするのではなく、自分たちでモノを提供して発信していきたいと思うようになっていた。
依頼する・されるの関係ではなく、ともに作り上げるパートナーとして、なにかに関わりたい。限られた時間を、少しでも無駄だと感じることに費やしていたくない。
その思いが、高杉さんの背中をそっと押した。

こうして、奥さんとともに松阪市へ移住。名古屋を去ることへの迷いも、デザインの仕事への不安も、一切なかった。住む家も決まっていなかったが、執着せず、目の前の出来事を受け止め、精一杯取り組んでいくだけだった。

晴れて松阪市民となった高杉さんは“地域の人”として街づくりをしていくのだが、ここでも彼なりの視点が冴える。

キーワードは、「時間と金の使い方」だ。


<最終回>へ続く


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