キーワードその4.手を合わせる。
三浦さんは、毎朝必ず手を合わせるところがある。
「まずは、神棚ですね。そして、ご仏壇、ご先祖。それから、亡くなった僕の師匠です」
最後に挙がった「亡くなった師匠」という言葉が気になった。
2015年頃のこと。六代目の自分が、今できることは何かと考えたときに目をつけたのが、桶太鼓だった。
「太鼓の種類は数ありますが、桶太鼓は今のニーズに合わせて好みの音や形がを作りやすいんじゃないかと思って。
「伝統」としての太鼓ではなく、「楽器」・「魅せる」太鼓を作り上げるために。
ところが、いざ自社で桶太鼓に注力しようと思っても、これまで桶太鼓の「胴」の部分は外部の職人さんに委託していたので、そのノウハウが全くなかったんです。
だったら、その人に学びに行こう!お礼もかねてご挨拶に行こう!と思い立ち、 その技術を継承する伝統工芸士・五十嵐修さんという人に会いに、秋田へ行きました 」
いくら見よう見まねで“キレイな桶太鼓”を作っても、“活きた音”はしなかった、という。
では、自分の作るべき“活きた音”は、どうしたら作れるのか。
何百年と使われてきた太鼓に、今なお“活きた音”が宿るのは、なぜなのか。
秋田に向かいながら、そんなことを考えていたという。
「僕が訪ねると、温かく迎えてくださいました。桶太鼓にかける思いだけでなく、現在少し体を悪くしていて桶づくりが滞っていることや、今度奥様とご旅行に行くこと…いろんなお話をして。
僕も、ありったけの情熱と、今自分には技術が必要だということ、“活きた音”を作りたいということを、お伝えしてきました。
帰ってからお手紙をしたため、改めて修行をお願いしたのですが…。断られてしまいました。技術を教える気はないと、お返事にハッキリ書かれていたんです」
打ちのめされた三浦さん。
しかし、桶太鼓を自分の手で完成させるという目標は諦めなかった。
時を同じくして、地元愛知に、伝統を守り続ける桶職人が存在するということを知ることになる。
愛知の師匠は三浦さんの修行を快諾してくれた。この日から、桶太鼓づくりを学ぶ日々が始まった。
「お体を悪くされた五十嵐さんに代わって、自分がしっかり桶太鼓を作らなくては!早く一人前になりたい!と、その気持ちだけです。ありがたいことにお客さんからの注文はたくさんあったし、とにかくがむしゃらでした。
そしていつか、五十嵐さんに自分が作った桶太鼓を持って、再びお会いしに行きたいと思っていました」
しかし、一本の電話。
五十嵐さんの訃報だった。
急遽訪ねた秋田。
身を切るような寒さの、2016年の冬のことだった。
年季の入った工房は手つかずのまま。五十嵐さんだけがいない。
三浦さんが最後に発注した桶の注文票が、ひらひらと悲しく揺れていた。
奥様の談では、五十嵐さんは長く癌を患っていたことにより、三浦さんが訪ねてきたころにはすでに体調がかなり悪化していたこと。
しかし自分の桶を頼りに訪ねて来てくれ、その時の三浦さんの思いがうれしかったと話していたこと。
そしてなにより、本当は三浦さんに桶太鼓づくりを教えたかったのだということ。
しかし体調がすぐれず、断腸の思いで諦めたのだということ。
もっと早くにお会いしていたら、もっと自分が早く上達していれば。
幾度となく、後悔とともに、「たられば」を繰り返した。
五十嵐さんはもう還らない。
「ところが後日、五十嵐さんの奥様から、五十嵐さんの工房を使って桶づくりをしてはどうかというご提案があったんです。ここでなら、なにか掴めるものがあるのではないかと。そのほうがお父さんもきっと喜ぶから、と言っていただけて、言葉にならない思いで胸がいっぱいでした」
秋田へ飛び、奥様から五十嵐さんのやり方を聞いて学んだ。道具も材料も使い、五十嵐さんを感じながら制作した。
まず取り掛かったのは、五十嵐さんが未完に終わった、三浦太鼓店から発注した桶だった。
作りながら、三浦さんは確信した。
五十嵐さんの桶には、「本物を伝えようとする生き様」が感じられたのだと。
五十嵐さんやご先祖が、コツコツと積み上げてきた経験、守り続けた技術、大切に使い続けた道具。桶太鼓のパーツひとつひとつにそれらが息づいているのだ。
それが「伝統」という太い柱となり、今につながり、人の心に届く“活きた音”を鳴らすのだと。
そんな生き様に自分は憧れたのだ、と思ったという。
自分も、伝統を守り、先人の遺物を感じ、本物を伝えられる太鼓を作りたい。
そしてその“活きた音”を後世に伝えたい。
三浦さんは手を合わせて、今日も先人たちと心で対話をする。
<最終回>につづく
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