編集だより

まだタイトルを持たない未熟なエッセイその1「言葉」

いつの時代も、人々は言葉に振り回されて来た。
言った、言わないと責任を逃れ、口数ばかり多くて意味が足りないと嘆き、人を怒らせ、傷つけ、悲しませてきた。

こうしてみると、往々にして、人と人が衝突するとき、必ずと言っていいほど「言葉」がある気がする。
言葉は個々が普遍的にかつ自由に持つツールでありながら、さらにそれをどう使っても構わないというからタチが悪い。だから使い方を間違って要らぬ争いの火種となりうるのだ。

いやむしろ、前述した例を出せば、言葉がないせいで喧嘩になることもある。謝ってくれなかった、お礼を言われなかった、無視された…。など。
「あのとき、こう言ってくれたら許せたのに」。そう思うことは、人生において一度や二度ではない。

もう、いい加減よさないか。
このように、ただでさえ言葉を扱うのは難しいのだ。
顔の見えないところから汚い言葉だけ投げつけるなんて、やることが狡猾なのだ。

その人の何を知っている。当事者以外はみんな他人だ。本来ならば他人は手も口を出してはいけないはずだ。

例えばあなたが、特定の誰か一人とキャッチボールをしていたとする。真剣なキャッチボールだ。相手の構えや表情から、どんな球種がくるか、どんなスピードでくるか、じりじりと予測している状況を想像してほしい。そんなとき、四方八方からボールが飛んできたらこの上なくうっとうしいだろう。当たれば痛いし当たらなくても気が散るし、とにかくとても不快なのだ。しかも投げたほうは、当事者からは姿の見えない位置から投げることができて、しかも投げたら逃げていいときている。なんだこれは。もはやなんの図なのだ。

だから当事者は、惑わされる。うっとうしくて不快だから、正気を保てなくなる。
イライラしたり、悲しくなったりして、弱音を吐いてしまいたくなる。さらに狡猾な人は、その弱音すらにも、また汚い言葉を投げつける。頑張って吐き出した小さな小さな弱音は、どろどろとした醜い言葉の塊に埋もれて、誰のところにも届かなくなる。

大切な時に人ひとりの命も救えない。
言葉とは、なんと無力なのだろうか。

私は、言葉で人を貶める奴が嫌いだ。

こういう奴は大概、自分が同じようなことを言われても、言い返すのがうまいか、そもそも言われたことを気にしないかのどちらかだ。少なくとも私にはないスキルだ。

そんな奴から、どうやって身を守ればいいのだろうか?

言葉に対抗できるものは、言葉しかないと思っているが、それでも明確な解決方法ではない。私にはわからない。言葉を扱う仕事に就いていながら、言葉で起きた問題の解決方法がわからない。本当にふがいない。

ただ、言葉のせいで誰かが死ぬのは、その人が自分に関係あろうとなかろうと、私はとても嫌なのだ。

本当は、こんなことを書く予定ではなかった。もっと自由に、言葉の可能性について思うところを書くつもりだった。
ところが、いてもたってもいられず、導入部分だけを残して、あとを大幅に書き換えてしまったのだ。けれど今もどうしようもなく胸糞が悪くて、夢枕獏さんの「静かに、しかし強く、なお強くこみあげてくるもの」と似た感情を抱いている。

今、言葉で誰かを傷つけようとしている人。頼むから一旦落ち着いてくれないか。
「口をついて出た言葉」と違って、「SNSにのせる言葉」はいくばくかの猶予があるだろう。お願いだ。私も気を付けるから。

こうして思いを書いて、私はなにがしたかったのだろうか。なんの抑止力にもなっていない気がして項垂れている。でもただの自己満足だったとしても、どうしても言わずにはいられなかった。

Text:光田さやか

コメント

この記事へのコメントはありません。

RELATED

PAGE TOP