生粋人

<第3回>音と人の揺らぎの中で。僕の綴る“ストーリー”。――「株式会社SW」代表・西澤裕郎

やがて開けた道。偶然と必然の車輪が目まぐるしく回る。

東京の製本工場で働き始めた西澤さん。24歳だった。
紙を折って糊で貼り、背を付けて裁断。製本された商品を整え、箱に詰めて出荷。オペレーターにもなったが、タバコを吸いながら作業する先輩や、理不尽な暴力が蔓延る職場環境に力尽き、10か月ほどで退社。
いよいよ、どんな仕事に就きたいかと、真剣に考え始めた。

「書店でも働いたし、製本も経験したし、あとはもう出版の大元で働きたいなと思って。それで、求人を募集している出版社を探しました」

楽譜や合唱譜、イラスト集を制作しているN社という出版社だった。
従業員はわずか5人。ほぼ家族経営だが、設立80年にもなる歴史ある会社だ。西澤さんはここで、倉庫の在庫管理から営業、社長宅の草むしりまで、ほぼ全ての業務を行っていたという。

「そこはもう昔ながらの作り方で。活版印刷っていうんですかね。70歳の職人さんが、鉄でできた音符のハンコを 楽譜の線に合わせて手でグッグッ、て押していくんです。それを何十年も続けている方なんで、親指がすり減って半分くらいになっていて。それには驚きました」

実は西澤さんには当時、N社で務めながら行っていた“あること”があった。
それが「音楽記者」だった。

「 N社に入ってからのことです。東京でできた友達とアングラなオールナイトイベントに遊びに行ったとき、「Limited Express (has gone?)」というバンドのギタリスト・飯田仁一郎さんを紹介してもらって。その方は『OTOTOY』という音楽配信サイトの編集長でもあったので、『僕も音楽が好きなんです』という話をしていたら、『今度、なんか書いてみて』ということになり。そこでちょこちょこ音楽の記事を書き始めました。
そんなにフットワーク軽くやれるものなんだ!そういう姿勢ってカッコイイ!と思って、N社で働きながら、自分でも好きに発信できる場所が欲しくなったんです 」

N社の社長に相談したところ、仕事に支障が出なければ、と快諾。自分で媒体を発行することにしたのだ。

偶然か。必然か。こうなったら、車輪が回るのは速かった。あれよあれよという間に開かれた道を、西澤さんはぐんぐん走って行った。

自分の書きたいことを書けている、やりたいことをやれている。
自費で1000部発行して1冊36ページ、定価300円。 タワーレコードやヴィレッジヴァンガードなどに置いてもらったという。
印刷代だけでも回収できればよかった。
儲けを出そうというよりは、とにかくみんなに見てほしかった。

「僕はもともと、そんなに文章を書くのがうまいわけでも、知識があるわけでもなかったんです。でも、星の数ほどのwebサイトの中で自分が埋もれてしまうのはどうしても嫌だった。だから、当時斜陽だった『紙媒体』をあえて選んで、自分自身を編集長と名乗り、注目を集めたかった。とにかく世間に読んでほしかったんです

冊子の中では、東京の地下アーティストを主に取り上げた。ライブハウスに通い、マイナーなインディーシーンを詳らかに伝えた。
アーティストの持つ、粗削りな、しかし完成された世界観を見て、本人からもじっくりと話を聞いた。
届けたいところに、届けるべきものを、たっぷり届けたかった。
その量、なんと1アーティストあたり10ページ。
音楽としての作品ではなく、彼らの“生き様”を、まるでストーリーのように書いた。

その冊子の名前は、“StoryWriter”。
西澤さんの中でくすぶっていた小さな火が、大きな情熱となった瞬間だった。

最終回へ続く>

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