生粋人

<第2回>一滴、乾坤を潤す。“磨き続ける”覚悟。——浦野合資会社 杜氏・新井康裕

先代や仲間と目指した、銘酒「菊石」の“復活“。

 新井さんが勤めていた名古屋の酒蔵には、自身の他にもう一人兄弟子の男性がいた。互いに切磋琢磨し、支えあった仲だったが、その彼が蔵の杜氏になったことで現状が変わり始めた。

「もちろん仲が良くてお互い頑張っていたのですが、彼が杜氏を任されたため僕は彼の補佐をするようになりました。一つの蔵に杜氏は一人しか存在できないので、仕方ないことです。とはいえ、僕もそのときにはもう『自分の酒』を造りたい、杜氏になりたいという思いが強くありましたから、彼とも話し合って、蔵を移ることに決めたんです」

 そこで縁があったのが現在の『浦野合資会社』だ。同社も同じように、岩手や新潟などから職人を呼んで自社の銘柄「菊石」を造っていたが、時代の流れに伴い自社で杜氏を育てていかなくてはならないという過渡期にあった。加えて、造り手が変わることによる味の不安定さも看過できない問題点として上がっていた。そんな中、当時30歳そこそこだった新井さんは、自社で育てる杜氏の人材としてはうってつけだったのだ。そこから二年間はその年に訪れた岩手の杜氏に酒造りを習い、その後先代社長の浦野正二さんに認められ、晴れて「浦野合資会社」の杜氏となった。

 ところが、簡単に酒造りを始められない重大な問題がいくつかあった。その一つが、蔵の整備である。先述しているとおり、同社は長年外部から杜氏を呼んでいたため、その年に来る職人が使い勝手をよくするために蔵のあちこちに工夫を施していたのだ。しかし毎年同じ職人が来るとは限らない。そのため、一見すると何のためにそれが作られ、どのように使えばいいのか新井さんにとっては全くわからないものが、蔵のそこかしこに存在していたのだ。これは使える、これは多分使わない。これは……ええと、何だろう?新井さんはひとり呟きながら蔵を巡回した。

 蔵の整備と並行して、「菊石」の製法も一から見直しを図った。その年々で杜氏が変わるため、米の削り方にはじまり水分量、蒸し時間、発酵時間など、どの行程をとっても若干のばらつきが生じてしまっていたのは言うまでもなかった。それゆえ、安心して出せる決定的な魅力、つまり“菊石らしさ”が失われていたのだ。新井さんはそこで、自身のルーツでもある「化学と実験」を適応させようと考えた。

「米をどのくらい削って、どのくらい水に浸す。重さが何%増えたら引き上げる。麹を育てる部屋の温度と湿度はこのくらいに保つ。酵母の様子を見て、温度を0.5℃単位で調整する。そして結果を見る。そんなふうにして、まずは条件を変えて試行を繰り返し、データを収集するところから見直しました。そうすることで、『菊石』の味に磨きをかけたかったんです」

 こうして数年かけて行われた、蔵の整備と製法の見直し。しかしそれは決して自身の独断ではできなかったと、新井さんは言う。新井さんがこれまで体験してきた理論に基づく推察と越後杜氏のもとで培った技術を見込み、設備投資に柔軟な理解を示してくれた先代のおかげに他ならなかった。加えて、先代は新井さんと同じように菌の発酵に長けていた。新たな「菊石」の誕生に向けて夜通し話を弾ませたことが、今もありありと思い出せる。

 共に酒造りをする社員に対しても、新井さんは感謝の念に絶えないと話す。酒造りにおいて、杜氏の言うことは絶対だ。これまでとは違い、内部の人間が杜氏を務めるため、自身のやり方を必ず受け入れてもらわなければならなかった。「あとから来たくせに、蔵を変えたりやり方にあれこれ言ったり。それなのに皆さんはついてきてくれたし、逆にたくさんのことを教えてもくれました。本当に感謝しています」と新井さんは回顧する。

 また、自分の方針に迷い悩むときは、道を同じくする同志が支えてくれた。酒造りに関する情報や味の感想、経理や現場の管理に至るまで、全国で奮闘する蔵人たちからのあたたかい助言は尽きなかった。

 とどのつまり、みんな、酒造りに妥協したくなかったのだ。

もろみを仕込み、発酵具合を調整する「櫂入れ」。清酒ならではの三段仕込みという手法を用い、徹底した温度管理のもと発酵させられ、搾りにかけられる。
大きな和釜に湯をたっぷりと沸かして米を蒸すため、蒸し上がりは非常に熱い。

 あまねく支援を受け、ようやく“菊石らしさ”を引き出せる製法が確立した。丹念に米を磨き上げ、丁寧にゆっくりと時間をかけて旨味を引き出す。こうすることで、ほのかな香りとやさしい甘み、さらりとした飲み心地が印象的な唯一無二の味わいになった。先人たちが培った150年前から変わらぬ手仕込みに、越後杜氏の古き良き技術、そして酒造りに好適な徹底した環境管理が織り成した独自の製法が、この味をもたらしたのだった。

最終回>へ続く

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