生粋人

<第3回>僕を突き動かすのは、“直感”。境界線の、先にあるもの。 ――音楽家・太田豊

太田豊・16歳。とある一言がきっかけで手にした龍笛。

時間を少し戻そう。今度は、もう一つの楽器「龍笛」との話をせねばなるまい。

太田さんが高校に入学し、独学で学んだジャズ演奏が楽しくて仕方がないときのことである。ある観客の一人に、こう言われたそうだ。

「君は、日本の音楽を少し学んだ方がいい。って言う人がいて。『これから音楽を続けていくつもりなら、片手間でもいいから日本の音楽に触れなさい』とね。なんでそんなこと言ったのか、今でもわからないんだけど、自分の中でその言葉になにかピンとくるものがあったんだよね。近所に雅楽をやっている人がいたし、まあちょっと行ってみようかな、という軽い感じで練習風景を覗いた。それで、僕、中学でピッコロやってたでしょ(笑)。これなら僕でもできるかも、ということで、龍笛と出会ったんだ」

16歳だった太田さんは“あまのじゃくのピッコロ”の演奏経験を活かし、龍笛奏者に。親よりも年上の奏者たちが集まる集団の中で、期待の若手、次世代のホープ扱いだったという。週に一度、他人のススメでなんとなく始めた龍笛だったが、アドリブや感性に重きを置くジャズとは違う、「形式美」の面白さも、彼が龍笛を続けていくのに十分な理由だった。高校を卒業して雅楽の練習はひと段落したが、東京へ向かうカバンの中には、サックスとともに龍笛も入れた。

上京して間もなくサックスにのめり込んだが、渋さ知らズの一員として華々しく活躍するまでは、先述した通りの紆余曲折があった。今更大学も行けない、鳴かず飛ばずでもどかしい…と悶々としているときに、地元・富山の雅楽仲間から連絡があった。

「太田さん、せっかく東京にいるんなら、宮内庁の先生に習ってみたら?」と。

「当時、バイトくらいしかやることもなかったし、気楽な気持ちで行ってみたんだよ。それこそ、気楽すぎたかもね(笑)。髪の毛が、金髪だったか、赤だったかな…?とにかく『なんか変なやつ来たぞ~』みたいな感じで見られて。まあそれが、今の僕の師匠なんだけどね」

本格的に龍笛を習い始めると、驚くほど上達を実感できた。お手本とする師匠が、すぐそこにいるということもあったかもしれない。グループレッスンだったため、始めたばかりのころは長い机の一番後ろに座って吹いた。
実力のある人ほど、前に座ることを許された。もっと上達してもっと前に座りたいと思った。もっと師匠に近づきたかった。

渋さ知らズのヨーロッパ遠征にも、龍笛を連れて行った。前座にと現地で吹けば、まさしく龍の嘶きのように切なく尊い響きは、異国の地でも喝采を受けた。

「サックスも、もちろん好きだった。でも、自分ではうまいつもりだったけど、そうでもなかったんだよ。上達したいのに、その先が見えなくて、ずっと苦しかった。龍笛は、上達していくのがわかってうれしかったんだ。じゃあどうしたら、この板挟みから脱却できる?それで決めたのが、進学。東京藝術大学で、本格的に雅楽を学ぼうと決めたんだ」

サックス奏者の道を絶ち、龍笛奏者として生きる。その直感を大切にした太田さんは、大学在学中は一度もサックスに触れることはしなかった。

最終回>に続く

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