生粋人

<第3話>譲れない“大義”。モノづくりの未来を見据えて。「REAL Style」代表・鶴田浩

自分が求める“インテリア”とは。仲間と共にナゴヤを発信。

久しぶりに見た上司の顔。以前勤務していた建築会社が新しく事務所を設立することになり、そこに鶴田さんを引き込むべく帰国に合わせてわざわざ自宅まで訪ねて来たというのだ。そのとき発せられた言葉は、「デザイナーズマンションをつくろう。名古屋にオシャレな集合住宅をつくろう」というものだった。

当時、日本はバブル経済のさなか。同社は名古屋の高級住宅だけでなく、デザイン性の高いマンションやファッションビル、景観の良い街並みもプランニングしていた。
激しく叱咤し、激励と共に送り出してくれた上司が、今の名古屋でまた自分の力を欲してくれている。恩に奉公すべく、鶴田さんは申し出を受け入れた。

現場監督としてしごかれた2年。
ヨーロッパを放浪して肌で感じた日々。
そのすべてを、鶴田さんは設計・企画に落とし込み、名古屋の至る所で建築として表現した。

当時の流行りといえば、コンクリートを打ちっぱなしにしたストイックな建築。建築家の安藤忠雄氏を筆頭に、妹島和世氏、高松伸氏らの影響を多大に受けた、ポストモダンで重厚なものだった。

そして何年か経った頃、鶴田さんはふと疑問に思うことがあったという。

そういったマンションや高級住宅に住んでいる人の多くが、建物だけを気にして中のインテリアはおざなりになっていたんです。そもそも光の差し込み具合や、間取り、階段のつくりなどにこだわるのは素晴らしいけれど、住むには快適なのか?と僕も気になっていた。本当に考えなくてはいけないのは、暮らしのことなんじゃないかって

そうはいっても、建築家がインテリアのことにまで口を出すことはなかなか難しかった。出来上がったハコの中に合うような家具を、となると、また別の業務として請け負うことになってしまう。実際は住み手が合うものを自分で探してくるしかなかったのだ。
しかしヨーロッパは違った。「暮らし方」に重きを置く欧米では、住み手が使いやすいインテリアありきで家づくりが成り立っていた。だからヨーロッパでは、建築家がインテリアデザイナーになり、そこからプロダクトデザイナーになる、というような人が大勢いたのだ。

「当時、宮脇檀さんという、安藤さんとは相対にある建築家がいて、その人は椅子から設計して建築を考える人だった。著書で『暮らしはまず、手に触れるものから』という一言を見たとき、コレだ!って思って、僕はスッと腑に落ちた気がしたんです

椅子があり、テーブルがあり、そこに照明があり。光が落ちて、その連続がランドスケープになる。それこそが暮らしであり、住み手のことを考えた建築のあるべき姿なのではないか。

そう考えた鶴田さんは、学生時代から交友の深い、ある男性に相談を持ち掛けた。その人は岡山県でタンスメーカーを営む経営者で、昔から互いの苦楽を知る仲。一緒に仕事をするなら彼だと思った。
こうして鶴田さんが理想としていた「建築からインテリアまでを一手に請け負えるライフスタイルショップ」は、彼の協力の元、「REAL Style」として名古屋の街に誕生したのだった。

開店してすぐ、店は毎日のように大盛況だった。これまでの名古屋にはなかったライフスタイルショップとして注目され、メディアの取材も受け、2002年には名古屋市景観賞(リニューアル賞)を他薦で受賞した。

ただただ、名古屋をカッコよくしたかったんです。名古屋って魅力がない街とか観光名所がない土地とか、いろいろ言われているでしょう?そんなんじゃイヤでね。もっとセンスのあるオシャレな街だと言われるようにしたかった」

そこで始めたのが、「ナゴヤデザイナーズウィーク」。地域の生活文化の向上として、日本中に誇れるナゴヤであるためのイベントを開催したのだ。鶴田さんは、名古屋でも影響力のあったインテリアショップやデザイナーに声をかけ、仲間を募った。
自分一人だけではできないことでも、志を同じくする仲間と一緒ならできる。鶴田さんはそう信じて毎年イベントを続けた。

しかし2008年。リーマンショックの波が名古屋を襲う。家具の買い控えが続き、イベントも思うように浸透せず打撃を受けた。例にない不況の中、客の購買心理もわからなくはないが、このときばかりはさすがに意気消沈したと鶴田さんはいう。

そんなときに、彼ですよ。会社の立ち上げから一緒にいてくれたタンスメーカーの彼が僕に『メイド・イン・ジャパン・プロジェクトをやろう』、と言い出したんです。僕らがちょうど40歳のときでした」

当時はタンスメーカーも、競合他社はなかなかにひっ迫していた。中国からは安くて手軽なタンスが入り、高級志向の家具は有名な北欧ブランドへと引っ張られた。西洋の様式であるウォークインクローゼットが主流だったことも大きい。そうこうしているうちに100社以上あった産地は数十社にまで減ってしまった。「自分は別の販路を見出すことができたからよかったが、周りをみればひどいありさまだ。地域には特長のあるメーカーやデザイナーが大勢いるのに」。友人は鶴田さんに吐露したという。

例えばこんな話がある。地域のモノづくりを活性化させようとして、有名な建築家が地域の伝統工芸とコラボして商品を作るとする。しかし流通がうまくいっていないため、全く売れずに残ってしまう。作ることに意識を向けすぎて、その先を考えていなかったのである。
今でこそ、SNSの普及やブランディング戦略などでそういった問題は解決されることがあるが、当時はそんなことが日本のあちこちにあふれていた。

その思いをカタチにするべく「メイド・イン・ジャパン・プロジェクト」は始動する。
10年後の日本のモノづくりのために、
日本の人に日本のモノの素晴らしさを伝えよう。
モノを循環させて、地域に経済を循環させよう。

鶴田さんの中にゆるぎない大義が生まれた。

最終回へ続く>

コメント

  1. 部外者なのに勢いだけでメイドインジャパンプロジェクトの説明会に行ったことを思いましました。そしてナゴヤデザイナーズウィークでもお世話になりました。どれも直接鶴田さんとは関わらせて頂く事は個人的にはありませんでしたが、今の自分の身になっています!去年は東京のリアルスタイルさんにお邪魔しましたし。このシリーズは次が最終回なのですね。楽しみです!

      • meetsme
      • 2020.08.02 7:06pm

      倉橋岳様
      勢いだけで説明会に参加されるとはすばらしい行動力ですね!
      このあたりのお話を聞きながら、岳さんももしや、と思っておりましたが、
      やはりそうだったのですね。
      職種は違えど、同じ「ナゴヤを想う」身。大義のもとに、強くつながっているのですね。
      最終話もぜひお楽しみくださいませ。

      光田

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